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7.その他
- 青龍寺は、元霊場会会長蓮生善隆により四国零番札所と名づけられた。
- 與田寺は四国八十八箇所総奥の院とされる。
- 現在、第三十番札所は「善楽寺(高知市一宮)」であるが、元来の第三十番札所は土佐一ノ宮高賀茂大明神(土佐神社)で別当の神宮寺が納経を行っていた(当時、高鴨大明神と神宮寺はほぼ一体の存在であった)。しかし、明治初頭の廃仏毀釈によって「神宮寺」は廃寺となり、高賀茂大明神の本地仏である阿弥陀如来も二十九番札所国分寺に移された。1876年(明治9年)、これを安楽寺へと移すこととなり、三十番札所も安楽寺が引き継いだ。善楽寺は神宮寺の塔頭寺院として葬儀などを執り行っていたが、神宮寺と共に廃寺となった。しかし1929年(昭和4年)に地元から葬儀を執り行う寺院の復興が望まれたため、埼玉県さいたま市にあった東明院の寺基を移す形で善楽寺を復興し、国分寺から旧神宮寺の弘法大師像や寺宝を引き継いだ。このころから善楽寺が「善楽寺は弘法大師巡錫地であるから第三十番札所である」というようになった。三十番札所が二ヶ所存在するような事態となった。1942年(昭和17年)には善楽寺を札所とし、安楽寺を奥の院とする取り決めがなされたが履行されず、二ヶ所併存状態が続いたため、遍路たちも戸惑いながら2つともに巡礼する姿が見られた。そのため、安楽寺を弘法大師ゆかりの阿弥陀如来を安置する本尊奉安の霊場、善楽寺を開創霊場として、どちらで納経を行ってもよいということとなった。さらに1993年(平成5年)元日より、「善楽寺」を第三十番札所に、「安楽寺」は第三十番札所奥の院とすることで正式に決着した。
- 明治維新による神仏分離令によって、それまでの第六十八番札所「琴弾八幡宮」の本地仏(本尊)の阿弥陀如来像をほぼ隣接する第六十九番札所「観音寺」の西金堂に移し、神恵院とした。これ以降、観音寺には一寺院の中に二つの札所が存在する。本堂と大師堂はそれぞれ存在するが、納経所はひとつである。
- 大相撲第六十八代横綱朝青龍明徳(あさしょうりゅうあきのり)の四股名は、第三十六番札所青龍寺にちなんでつけられた。モンゴルから相撲留学していた明徳義塾高等学校の近くにある青龍寺の石段でよくトレーニングをしていたため、明徳義塾の校長の案で四股名とした。ちなみに「明徳(あきのり)」は、母校の名からつけた。
- 江戸期の巡礼では河川や湾口の通行に渡し船を使うことがあり、吉野川、浦戸湾、須之内湾、四万十川などにあった。2005年末までは四万十川にも渡し船があったが、現在では浦戸湾の種崎・長浜間の渡し船(県営フェリー)が残るのみである。巡礼者が渡し船を使うと多くの場合渡し賃が無料(接待)であったと伝えられている(現在の浦戸湾の渡し船は巡礼者でなくとも無料)。歴史的な経緯から渡し船に乗った以外を徒歩で結願した場合は、全て徒歩で結願したとみなされる。
- 歩行不可能、困難な巡礼者はかつて「いざり車」に乗って巡礼した。これは現代でいう車椅子にあたるもので、小さいものは台車のようなものだが、大きなものは小屋に両輪がついたようなもので、この中で寝泊りできたという。遍路では主に後者の小屋タイプが使われていた。村によってはいざり車をみかけると隣村まで押していく、という決まりごとがあったと伝えられている。
- 江戸時代、土佐国(現高知県)では巡礼者の入国、出国は甲浦(現東洋町甲浦地区)と松尾峠(現宿毛市)の関所二ヶ所のみとされた。入国してからも札所以外の立ち寄りは禁止など厳しい制限がかけられた。また遍路狩りのようなこともあったと言われている。また、四国でもっとも廃仏毀釈が激しかったのは土佐であり、このようなことから、巡礼者の間では「鬼国土佐」などと呼ばれることもあった。といっても、入ってしまえば、草の根を分けてでも取り締まることはそうそうなく、気候温暖ですごしやすく、民衆の接待は他の国と同様であったため、冬には乞食遍路が集まってきたといわれている。そのため晩秋のころからは遍路に対しては関所を閉じるということもあった。
- 国や自治体では、四国八十八箇所やその他の史跡や自然を辿る道を「四国のみち」として各種整備している。旧来の遍路道が「四国のみち」が重なっている場合などは、「四国のみち」として案内版や登山道の整備などがされているが、かならずしも「四国のみち」と旧来の遍路道は一体となっているわけではない(札所間のルートで四国遍路とは関係がない史跡が組み込まれて遠回りになる場合がある)ので、遍路道を辿りたい場合には注意が必要である。
(出典:Wikipedia)