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首相退任後の1998年8月、橋本は小渕首相から、首相外交最高顧問を任じられ受けている。この首相外交最高顧問は内閣官房長官が「任務を解く」と談話を出すまで続けられることとなっており、議員引退後もこの肩書は残っていた。小渕―森―小泉と三代にわたって務めあげた。
1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族で重きを為す橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は固辞。自分に代わって同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する<ref>『蠢く野中広務』 pp.316-319</ref>。
2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔が衆議院議長に就任した事に伴って、会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適当な人材が居なかった為である。実権は野中広務や青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」と揶揄するマスコミもあった。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが、放っておく事も出来ず、仕方無く引き受けたという。
同年11月、加藤の乱の際にかつて欧州で行われた儀式を引き合いに出し「猫を鉄板の上で躍らせるようにして甚振れ」と発言し物議を醸す。
同年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、行政改革担当大臣兼沖縄開発庁長官に就任。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。
2001年4月の総裁選では、派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出たが、当初は橋本の勝利が予想された。結局「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気を誇った小泉純一郎に敗北。小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった<ref>『小泉純一郎の「宣戦布告」』 pp.341-342</ref>。