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1989年、宇野内閣成立時には幹事長代理の経験が買われ、幹事長に昇格した。リクルート事件の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選ではかつてない逆風にさらされたが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説し、国民的人気を得るに至った<ref>『自民党幹事長室の30年』 pp.227-232</ref>。
参院選で惨敗し宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸びなやみ、再登板を目論み世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信や小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。
1989年8月海部内閣で大蔵大臣に就任し<ref>『実録・橋本龍太郎』岩見隆夫著</ref>、第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで引責辞任した。
1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、後継会長の座をめぐって小沢一郎派と反小沢一郎派が対立。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。小沢・羽田派は経世会を離脱して改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動をともにした。
1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平、石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した<ref>『小説 角栄学校』 pp.209</ref>。総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は下野した。宮澤喜一首相の後継総裁にと後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁のもとで政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて「政権奪還論」を著している。
自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権の村山内閣で通商産業大臣に就任した。大臣在任中、日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも高く評価されている。