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社会人3年目の1962年、既に政治家に転身していた父・龍伍が急死した。会社に出勤してから2時間後に訃報を聞いたという<ref>『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』39頁</ref>。
父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている<ref>『橋本龍太郎・全人像』123頁</ref>。しかし、当時大学生であった大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の母・正に出馬を求める声も挙がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった<ref>『小説 角栄学校』83頁</ref>。
1963年の総選挙で衆議院議員に初当選。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った<ref>『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』 47-48頁</ref>。
初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され<ref>『橋本龍太郎・全人像』128頁</ref>、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった。本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。
議員当選後に結婚。妻・久美子は遠縁に当たり、結婚の媒酌人は佐藤栄作がつとめた。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤が葬儀委員長を務めた<ref>『仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』30頁</ref>。そういった関係でもあり派閥は佐藤派に所属した。
1969年の総選挙では、選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長・田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞、田中派に参加した。