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南北戦争が始まってからは、たくさんの奴隷たちが北軍の兵士として、自分たちの自由のために戦った。北軍が戦いで占領した南軍の奴隷たちをどうするかについては議論がなされた。北軍の将軍たちの中にはその奴隷たちを解放するよう指令をした者もいたが、リンカン大統領は最初、それを取り下げた。しかし、それまでの合衆国の法律では、北軍が確保した南軍の奴隷たちを、その後南側に明け渡さなければならないことになっていた。奴隷たちを完全に解放する段階でもなかったが、だからと言って南側に彼らを明け渡す訳にもいかなかった。このため、1862年3月13日に、連邦側の政府は、北軍の将軍たちが南軍に奴隷を明け渡すことを禁止した。こうして、1850年の逃亡奴隷法(Fugitive Slave Law)は無効になったのである(逃亡奴隷法は、逃亡中の奴隷を発見したら、かくまわずに主人に明け渡さなければならないとした)。1862年4月10日には、自分の奴隷を解放した者は政府から補助金が受け取れることを議会が宣言。コロンビア特別区の全ての奴隷は、1862年4月16日に解放された。同年6月19日には、連邦国全ての領土で奴隷制が禁止され、1857年の最高裁判所によるドレッド・スコット裁決は無効となった。ドレッド・スコット裁決では、合衆国の領土での奴隷制を規制する権利は議会にはない、という判決が下されていた。
リンカン大統領自身も、奴隷制を廃止する法的な権利が自分にないことを明らかにしていた。それに、奴隷制を単純に廃止する訳にもいかなかった。その理由は、北軍の味方の州の中には、まだ奴隷制を認めている州もあった。そういう州は、奴隷制を廃止するために南軍と戦っていたのではなく、連合側を連邦側に引き戻し、合衆国を再び統一するために戦っていたのである。また、この奴隷解放宣言は、議会の提案する法律や憲法修正条項のようなものと言うより、むしろリンカン大統領の最高司令官という職務においての軍事的な指令であると言われている。さらには、奴隷解放宣言が憲法違反だったという意見もある。本来、軍隊の最高司令官には、軍隊の行動を監督する義務はあるが、新しい規則を制定する権利はない。また、奴隷解放宣言は、解放された元奴隷たちが、連邦軍隊に入ることを許可した。ただし、元奴隷たちの軍隊とその他の軍隊とは分けられていた。これによって、北軍は、新たな200,000人近くの黒人兵士たちを獲得し、南軍との戦いでは、さらに有利になった。
リンカン大統領は1862年7月に、奴隷解放宣言について閣僚たちと話し合っていた。しかし、リンカンは、南軍との戦争に勝ってから、その後にこの宣言を発表したいと思っていた。なぜなら、この宣言によって、連邦側の味方でありながら奴隷制を実施している州が、連邦側を脱退してしまう恐れもあったからだ。そうなれば、北軍が戦力を失い、南軍が戦力を得ることになりかねない。だから、南北戦争最大の決戦アンティータムの戦いで、北軍が、メリーランド州を侵略に来た南軍を倒した後、リンカンは1862年9月22日に、奴隷解放宣言の予告版を発表したのである。
奴隷解放宣言が奴隷制に瞬時に大きな影響を与えたわけではないが、もともと南部連合軍の領土で後に連邦側が支配した地域では、奴隷制がコントロールされるようになった。境界線の州(デラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、ウェストバージニア州)では、連邦軍に忠誠だったため、宣言の対象外となり、この宣言によって奴隷制が即時に廃止されることはなかった。国務長官ウイリアム・H・セワードは、奴隷解放宣言に関して「私たちの手の届かない地域に、奴隷を解放するよう命令することによって、そして、私たちが奴隷たちを自由にできる地域には彼らを留めておくことによって、私たちは奴隷たちへの思いやりを表します。」と言ってコメントした。メリーランド州、ミズーリ州、テネシー州、そしてウェストバージニア州は、それぞれ自主的に奴隷制を廃止した。その後、1865年に、合衆国憲法の第13修正が承認され、アメリカ合衆国全体で法的に奴隷制が廃止された。リンカンは奴隷解放宣言を「戦闘に必要な処置」として、議会から与えられた暗黙の権威を活用して発表した。