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ストロング小林-新日本プロレス参戦後について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.経歴
1.2.新日本プロレス参戦後

順調に国際の屋台骨として活躍していた矢先の1974年2月、小林はアントニオ猪木への挑戦を表明して団体を離れる。小林が自己主張が得意でない性格であったことから、後年この事件は新日本プロレスの選手引き抜きであったと目されているが、小林自身は「グレート草津らをエースに立てようとするフロントとの意見の対立が元々背景にあり、以前から離脱を考えていた」としてこれを否定している。またこの時小林に対し国際プロレス側が移籍金の支払を要求するというトラブルが発生したが東京スポーツが仲介に入り、一時的に小林は東京スポーツ新聞社所属のレスラーとなる。

同年3月19日蔵前国技館において猪木とNWF世界ヘビー級王座をかけて激突。団体エース同士のメインイベントでの戦いであり、この時期には日本人同士が本格的に争う図式が定着していなかったため、大きな話題を呼んだ(もっとも、小林は前年にラッシャー木村とIWA戦を戦っている)。結果は猪木のジャーマン・スープレックス・ホールドに敗れる。なおこのときのジャーマンは猪木がブリッジの際にだけで二人分の体重を支え、猪木のレスラー人生の中で最も危険かつ美しい角度で決まったといわれている。同年12月同じく蔵前国技館で再戦が行われたがまたもや敗れ、WWWF(現WWE)などへの海外遠征を経て1975年5月、新日本に正式入団する。

その後は坂口征二とタッグを組み、1976年2月に北米タッグ王座を獲得。以後3年2か月に渡り防衛。新日本プロレスにおいて、猪木、坂口に次ぐ存在感をもったレスラーとして人気を博した。当時のキャッチフレーズは「怒濤の怪力」。ただし、似たようなパワーファイタータイプで柔道日本一で身体も小林より大きい坂口と組まされたこともあって扱いは徐々に悪くなり人気も低下、1979年には坂口のパートナーの地位を長州力に奪われるに至る。なお、1978年以降の新日本と国際の対抗戦に際して、新日本軍団の一員として国際勢と戦っており、1980年には永源遙とのコンビでIWA世界タッグ王座に返り咲いている。1979年8月のプロレス夢のオールスター戦では、当時の国際のエースラッシャー木村との試合が実現している。

1981年腰痛を理由にセミリタイア状態となり、俳優・タレントとしての活動が目立つようになった。映画「伊賀忍法帖」(1982年)出演時、役名が「金剛坊」であったことをきっかけに「ストロング金剛」に改名。プロレスラーとしては1984年8月に正式引退する。以後は完全に芸能界に転身し、「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」で怪人役を演じるなどした。愛嬌のあるキャラクターでお茶の間、子供に親しまれる。

最近は再び腰を痛めたこともあり表舞台に姿を見せる機会は減ったが、肌のつやはよく元気だそうである。

(出典:Wikipedia)

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