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スペイン人による鉱山労働などでタイノ人らは酷使され、持ち込まれた疫病被害もあり25万と推定されるコロンブス以前の人口は激減し絶滅へと向かった。代わってアフリカからの黒人奴隷が大量に送りこまれた。当初のスペインの全島支配に対し、手薄な西側にフランス人などの海賊が侵入し、北西沖合の島トルトゥーガ島は海賊の巣窟と化した。しばしば貿易船や入植地を襲う海賊の脅威に、1606年にはスペイン人は入植者に対しサントドミンゴ周辺に集まって住むよう命令、空白地となった島の残りにはフランスやオランダ、イギリスなどの勢力が殺到した。1660年代以降フランスは島西部の領有を主張し入植地を築き、1697年のライスワイク条約で正式に島の西側3分の1はフランス領となった。
フランス領サン=ドマングは、北部カプ=フランソワ(現カパイシャン)を中心に砂糖・コーヒーのプランテーションが建設され、フランス植民地の中でも最も利益を生み出す植民地となったが、アフリカから連行され酷使される黒人奴隷の間には不満が高まっていた。フランス革命に乗じて黒人や混血(ムラート)勢力が決起しハイチ革命が起こり、1804年には西半球初の黒人共和国ハイチを誕生させ、プランテーションを解体させ小作農を多数生み出した。一方で独立後のハイチはフランスにより、放棄したプランテーションなどの賠償金を払うよう強要され財政や経済は混乱してしまった。
スペイン領サントドミンゴは、フランス革命戦争でのスペインとフランスの講和(バーゼルの和約)により1795年にフランスに割譲され、以後サン=ドマングのハイチ革命の荒波をかぶり、ハイチ黒人軍侵入による奴隷制度撤廃とナポレオン軍侵入による奴隷復活、ハイチ共和国軍に対するフランス軍の駐留継続が続き、ナポレオン戦争後の1814年にスペイン支配が復活するまでにすっかり荒廃してしまった。もともとサントドミンゴを放置していたスペイン人に対し、中南米で独立戦争が荒れ狂う1821年、副総督ホセ・ムニョス(José Núñez de Cáceres)はスパニッシュ・ハイチ独立を宣言しシモン・ボリバルの大コロンビアへの併合を提案した。しかしハイチ大統領ジャン・ピエール・ボワイエにより侵攻され人口の少ないスパニッシュ・ハイチは敗北し、全島がハイチ領となってしまう。
ハイチ支配下で要職はハイチ人が占め、対仏賠償を払うための税金がサントドミンゴ側に課せられるなどの屈辱的な状況下で、スペイン人やメスティーソたちは独立運動を模索した。1838年にホアン・パブロ・ドゥアルテ(Juan Pablo Duarte)が秘密結社ラ・トリニタリア(La Trinitaria)を結成し、1844年にドミニカ共和国独立を成し遂げた。この際のハイチに対する決戦の功績でラモン・マティアス・メラ(Ramón Matías Mella)とフランシスコ・デル・ロザリオ・サンチェス(Francisco del Rosario Sánchez)はドゥアルテ同様英雄と称えられている。ラ・トリニタリアを支援した富裕な牧場主ペドロ・サンタナが初代大統領となりアメリカ合衆国憲法にならった憲法を制定した。
ハイチ側では軍人フォースタン=エリ・スールークが事態を収拾し、皇帝に即位した。これに対しハイチの侵攻を恐れるドミニカは1861年、保護を求めスペイン植民地に逆戻りするが再度の植民地支配に対して反発も強まった。ハイチは独立運動を金銭や拠点の面から支援し、1865年ドミニカは再独立した。ドミニカ共和国側はスペインという大きな悪よりハイチという小さな悪を選んだ形だったが、ハイチを恐れアメリカ保護領になる提案も出したが合衆国が拒否して失敗した。ドミニカ側では再独立戦争に勝利した黒人軍人ウリセス・ウロ(Ulises Heureaux)がドミニカの大統領として君臨した。19世紀末にはハイチもドミニカも安定し、エリート層と農民層の対立は残しつつ、近代化へ向けた歩みを始める。