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7.人物・逸話
- 直政がまだ家康の小姓だった頃、大久保忠世の陣中に招かれて他の若手の武将とともに芋汁を振舞われた。だが、戦場の事であり味噌は糠味噌、具は芋の葉や茎が混ざったものであった。だが、他の若い武将は芋汁を食べているのに、直政の食は進まない。忠世がどうしたのかを尋ねると、直政は「醤油はありませんか」と応じた。このことを聞いた他の武将達は「ここは戦場だと言うのにそのような物があるわけがないだろう」と口々に直政を非難した。忠世は直政に「同僚の者たちは皆、同じものを食べている。兵士達はこのような物でも満足には食べられない。ましてや農民達の中にはもっと苦しい生活をしている者達もいる。一軍の将になりたいのであれば、このことを絶対に忘れてはならぬぞ。そのためにここへ呼んだのだ」と言った。新参でありながらも若くして選抜され、部下にも厳しかった直政に対する周囲の目は厳しかった。これ以後、直政はよりいっそう自分にも部下にも厳しくなっていくのである(ちなみに、ここで伝えられる醤油は、味噌を作る際の「たまり」であるため、現在の醤油とは異なる。現在のような醤油が作られるようになったのは江戸時代になってからである)。
- 直政は、三傑・徳川四天王・十六神将の一人とされており、家康の天下取りを全力で支えた功臣として、現在も顕彰されている。その一例として、滋賀県彦根市では、直政が現在の彦根市の発展の基礎を築いたということを顕彰して、『井伊直政公顕彰式』という祭典が毎年行われている。
- かつて、家康が豊臣秀吉の生母である大政所を人質にとった際に直政は大政所の警護を任されていたことがあった(この時、大政所やそれに従ってきた数多くの女性達も家康のように直政に惚れ込んだと言われている)。直政の手厚い保護に秀吉は大変喜び、自ら茶を立てて直政の疲れを癒そうとした。そこには、かつては家康の家臣であったが、今は秀吉の下に寝返って家臣となった石川数正も同席していた。このことに我慢ができなくなった直政は数正に向かって、「先祖より仕えた主君に背いて殿下に従う臆病者と同席すること、固くお断り申す。」と怒鳴った。これはいかに直政が家康に対して忠義を尽くしていたかを伺える何よりの証拠と言える(秀吉自身は直政が数正に対してどのような態度を見せるのかを知りたくて数正を同席させた)。なお、数正が秀吉の下に去ったのは天正13年(1585年)で、この事件が起こったのはその1年後の天正14年(1586年)である。
- 先祖代々、徳川氏の家臣ではない直政を家康が重用した理由は、直政が武勇だけではなく、知略や政治にも長けていたことや家康の四男・松平忠吉との姻戚関係のことももちろんだが、最大の理由は、直政があまり衆道を好まなかった家康に本気で惚れ込まれるほどの美男子だったからだと言われている。
- 関ヶ原の戦いの後、直政は石田三成の旧領を家康から賜ったが、三成は善政を敷いていたため、領民の信望が厚かった。直政はこのことを熟知していたため、佐和山城に入城すると、民政は三成のやり方を踏襲すると触れを出し、領民が三成を弔うことも黙認した。そのため、領民の心をつかむことに成功したという。また、三成が処刑される前、直政は三成の面倒を任されており、あまり三成に好感を抱いていなかったが、三成を手厚く保護したと言われている。
- 直政は徳川家中の中では外様でありながら、徳川家臣随一の領国を与えられていた。このため、三河譜代からの家臣から嫉妬、反発されたが、直政はそれに対して常に家康に奉公することで退けたという。ただし、そのあまりに厳しすぎる奉公ぶり、そして直政自身は気性が激しく、家臣のわずかな失敗も許さずに手討ちにすることも少なくなかったため、「人斬り兵部」とも称されたという。しかし、政治的手腕は非常に優れていたため、箕輪城主の頃は、城下の民衆から慕われていた。
- 大身になる前の頃、直政がどうしても強請るので家康が数ある愛馬の中から、特に栗毛の名馬を直政に与えた。これを聞いた本多重次がわざわざ直政のいるところで、「あのような名馬を万千代みたいな子倅にくれてやるとは、殿も目が暗くなったのではないか」といった意味のことを放言した。年が下って家康が関東に移ると直政は家中一の大身となったのに対し、重次は3000石しか与えられなかった。そして、大身になった直政は重次と顔を合わせた時、「昔、殿が名馬を下さった時に子倅だの何だのと馬鹿になされましたが、このような大身になれたのは、名馬に違わぬ働きをしたからでございます。目が暗かったのは本多殿の方でありましたな」と言い放った。このことから、直政は人に言われたことをすぐ根に持つタイプ、すなわち負けず嫌いであったということが分かる(「井伊年譜」)。
- 毛利家の重臣である小早川隆景は直政の武勇・政治的手腕に関して「直政は小身なれど、天下の政道相成るべき器量あり」と評価したことがある。これは直政がその気になれば、天下を取ることもできるということを意味している(隆景だけでなく、地方の武将達も同じようなことを噂していた)。
- 井伊の赤備えは、戦国屈指の先鋭部隊として天下に名を轟かせていたが、家臣達の中には直政による厳しい軍律に耐えられなくなり、本多忠勝の下に去る者達も多かったという。近藤秀用などのように出奔してしまった例もある。筆頭家老である木俣守勝ですら、直政の下にいるのが怖くなり、家康に旗本に戻してくれるように頼んだ。
- 一時期滅亡していた井伊氏をわずか一代で再興させ、さらに江戸幕府の譜代大名の筆頭にまで成長させた。
- 直政は徳川氏の家臣の中で秀吉から最も気に入られていた陪臣であったため、秀吉からも厚い信頼を受けていたが、。
- 関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山18万石を与えられたが、自分が嫌っていた石田三成の旧領であったため、直政自身はあまり納得しておらず、家康に上野国高崎に戻してもらうように頼んだ。
- 直政は武力と政治的手腕の両方ともにかなりの実力を有していたにもかかわらず、後世にその名があまりしられていない(かと言って、全く無名というわけでもない)。
- 武家社会において、主君が亡くなった時に家臣が殉死することは当たり前であったが、直政の遺言を守った井伊家では殉死者が一人も出なかった。
- 生涯に参加した57回の戦で軽装備であったにもかかわらず、一度も傷を負わなかった本多忠勝に対して、直政は重装備であったが、戦で常に傷を負っていたという。一方で生涯に参加した戦は16回であり、いずれの戦でも直政が負けたことは一度もないと言われている(井伊の赤備え自体は大坂冬の陣で真田信繁率いる真田の赤備えと戦って敗北している)。このため、直政はかなりの強運の持ち主であったとされている。また、上記のように直政と忠勝は度々比較の対象となったりすることがあり、この2人はお互いにライバル同士であったため、あまり仲がよくなかったとされる(記述によっては忠勝だけが直政をライバル視していたとされることもある)。なお、忠勝と同年齢の榊原康政とは、最初はあまり仲がよくなかったとされるが、家康が関東に入国してから共に行動をすることが多くなり、段々と仲がよくなっていったとされている。家康の筆頭家老である酒井忠次も家康と同じように直政に対して暖かい目で見守っていた。ちなみに忠次は直政がまだ一軍の将になったばかりの頃に康政がそのことを妬んだために叱ったことがある。
- ある時、家康は直政の家臣達を1つの場所に集めて、直政の衣服を脱がせて体に残っていた戦傷の一つ一つを涙ぐみながら説明したという(家康は直政が常に戦で戦傷を負うことをいつも気にしていたという)。このことを聞いた直政の家臣達も家康を見てもらい泣きをし、自分達も主君である直政のために全力で武功を挙げようという決意をした。
- 関ヶ原の戦いの後、直政は西軍の一員であった島津義弘から家康との和平交渉の仲立ちを依頼された(徳川氏の家臣の中に政治を専門とする本多正信がいるにもかかわらず)ことからその政治的手腕は、他家の者達に知れ渡っていたと思われる。
- 直政は思慮深く、口重であったため、度々家康の内々の相談相手になっていたと言われている。そのため、他人を評価することがめったにない家康は、直政のことを「余人がいない時に直政が意見を出してくれる」と高く評価している。つまり、直政は家康の御意見番であったということになる。
- 直政は石川数正と並んで徳川氏の家臣の中でも数少ない外交官として、大いに力を発揮し、また、家康から見て本多正信と並んで天下取りの知恵袋とされていた。
- なお、直政が兵部少輔に叙任されたのは、最初に赤備えを組織した武田氏の家臣である飯富虎昌が兵部少輔に叙任されていたためだとも言われている。
- あまり知られていないことだが、直政は正室である唐梅院に対してはかなりの恐妻家で、誰よりも負けず嫌いであった直政もこの唐梅院だけには頭があがらなかったという。直政の次男である直孝は唐梅院の侍女を母に産まれたとされるが、直政は直孝の誕生後、十年近くも対面しようとしなかった。唐梅院に対し大いに遠慮していたためと思われる。
- 関ヶ原の戦いの後、江戸から離れた領地に移封されて政治の表舞台からも姿を消している。かつての功績があまりにも大きいため家康に冷遇されたとも言われるが、直政は関ヶ原の戦いでの戦傷が元で破傷風を起こしているため病気で出仕できなかったとの見方が大勢である。
(出典:Wikipedia)
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