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1.生涯
1.3.関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは家康本軍に随行し、本多忠勝と共に東軍の軍監に任命され、東軍指揮の中心的存在となった。同時に全国の諸大名を東軍につける工作を行い、また合戦においても家康の四男・松平忠吉(直政の娘婿)をよく補佐して忠吉と共に当初、東軍の先鋒を任されていた福島正則を差し置いて先鋒を務めた(本来ならば、直政も忠吉も軍令違反で処罰の対象になるが、家康は直政の駆け抜けを認めたため、処罰を命じなかった)。その後の直政と忠吉の行動に関しては2つの説がある。1つは宇喜多秀家の軍と小西行長の軍と戦ったと言う説。もう1つは島津義弘の軍と戦ったと言う説。最近では島津義弘の軍と戦ったという説が有力であるとされている(直政は開戦当初から義弘の軍と戦う決意を固めていたとも言われている)。この戦いで義弘の家臣である島津豊久を討ち取った。しかし、義弘の軍を追撃している際に敵の銃弾が右肘関節(記述によっては右肩または左腕)に命中し、落馬してしまう。
関ヶ原の戦いの後は西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和、山内一豊の土佐入国の援助、徳川氏と島津氏の和平交渉の仲立ち(直政自身は和平交渉が完全に終了する前に亡くなったので、その後の和平交渉の仲立ちの役目は本多正信に引き継がれた)などと言った戦後処理と江戸幕府の基礎固めに尽力し、これらの功によって、石田三成の旧領である近江国佐和山(滋賀県彦根市)18万石を与えられた。
また、この頃家康が直政・大久保忠隣・本多正信・榊原康政・本多忠勝・平岩親吉ら六人の重臣を呼び集め、自分の世嗣を誰にするか尋ねているが、直政はこの時自分の娘婿である忠吉を推している。しかし結果的には忠隣が推した徳川秀忠が世嗣となった。
(出典:Wikipedia)
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