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井伊直政-安土・桃山時代について調べるならランキング★モンスターで簡単チェック!!
1.生涯
1.2.安土・桃山時代

直政は、高天神城の攻略を初めとする武田氏との戦いで数々の戦功(家康の寝所に忍び込んで来た武田軍の忍者の討ち取りなど)を立ててその名を轟かせた。天正10年(1582年)22歳の時にようやく元服を終え、万千代を直政に改めて、井伊直政と名乗るようになる。また、この年に家康の養女で松平康親の娘である花(後の唐梅院)と結婚する。その後、旗本先手役に任ぜられて、家康子飼いの武将である本多忠勝榊原康政の同僚となる。同年の本能寺の変では、家康の伊賀越えに従い、無事に滞在先のから三河国に帰還する。さらに武田氏が滅亡した後、後北条氏との交渉で徳川方の使者として政治的手腕を発揮し、家康が武田氏の旧領である信濃国甲斐国を併合すると、武田家の旧臣達を多数与力に付属され、山県昌景の朱色の軍装を復活させて井伊の赤備えと呼ばれる精鋭部隊の大将となった。また、同時に井伊谷4万石に加増された。

直政は家臣に非常に厳しく、少しでも戦で失敗をした者がいれば容赦せず処罰し、一軍の将となっても自ら先陣に立って戦うことを好むなど激烈な性格で、短所も多かった。そのため、戦の際に陣に留まって、指揮を執ることはほとんどなく、井伊氏の筆頭家老である木俣守勝がその役目を果たしていたという。こうした性格から、「井伊の赤鬼」と言われ、諸大名から恐れられた。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは初めて井伊の赤備えを率いて池田恒興を討ち取るなどの武功を挙げ、一躍天下に名を知られるようになる。直政の武力・政治的手腕は、豊臣秀吉にも高く評価され、家康と秀吉が和解すると、従五位下侍従兵部少輔に叙任される。天正13年(1585年)には、真田攻めにも出陣する。この後、井伊谷6万石に加増される。

直政は新参ながら数々の戦功を評価され、天正18年(1590年)の小田原の役では数ある武将の中で唯一夜襲をかけて小田原城内にまで攻め込んだ武将としてその名を天下に轟かせる。その後、後北条氏に代わって家康が江戸に入ると、直政は上野国箕輪12万石(群馬県高崎市)を与えられる。この石高は徳川氏の家臣の中で最も高い石高である。なお、徳川氏の家臣の中で10万石以上の領土を与えられた者は、直政、本多忠勝、榊原康政の3人だけである。慶長3年(1598年)には、家康の命によって、箕輪城を廃し、南の和田城を改築して高崎城とし、和田を高崎と改めて高崎に移る(地名の由来に関しては高崎市の項目を参照)。この時、箕輪城下に住んでいた民衆達も高崎に移っている。

(出典:Wikipedia)

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