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王震のまとめ
王震(おう しん、1908年3月15日-1993年3月12日)は中国の政治家、上将。湖南省出身。八大元老の1人に数えられた。
1927年中国共産党に入党。抗日戦争・国共内戦では政治委員として各地を転戦し活躍。
1949年の中華人民共和国成立後は新疆ウイグル自治区に乗り込み屯田兵である新疆生産建設兵団を率いてウイグル人弾圧と殖民を進める。中共中央新疆分局書記、新疆軍区第一副指令員、司令員、政治委員などを歴任、1953年、鉄道兵司令員、政治委員。1955年中国人民解放軍副総参謀長、上将。1956年、左傾と批判され国務院農墾部長に降格。文化大革命で冷遇されたものの、毛沢東の保護を受け1975年の第4期全人代で国務院副総理。
文化大革命終了後は鄧小平の復活を支持したが、政治面では保守的傾向を見せた。1982年、校長の華国鋒に代わって事実上校長の業務を担当していた胡耀邦が総書記に専念するため、鄧力群の推薦で後任に就く。保守派トップの陳雲から「黄埔軍官学校のような組織にしてほしい」と指示を受けた王震は、校長の権限で阮銘を党籍剥奪、呉江、孫長江を異動させるなど党校内部の改革派を一掃。一説には、同郷の胡耀邦が総書記に就任したことが面白くなかったと言われるが定かではない。
1985年中央顧問委員会第5回会議で副主任に選出。1987年の第13回党大会では中央委員を退くが、第7期全人代第一回大会で国家副主席に就任。
1989年の第二次天安門事件でも強硬論を唱え、共産党中央学校での演説では「君たちには100万の学生がいるが、我々には400万の解放軍がいる。どちらが強いかな。学生連中の脳天をぶち破ってやる。」と叫んでいたという。趙紫陽の後継者選びでは、陳雲が推薦した江沢民に中央の経験がないことを理由に反対し李鵬を推したが、鄧小平、陳雲、李先念の3人の意志が固いころを悟り、最終的に支持に回った。
1993年3月12日広州で死去。
中日友好協会名誉会長として1988年に日本を訪問、長崎市の新地中華街の門の額を揮毫している。
第7期中央候補委員、第8期から第10期中央委員、第11期、第12期中央政治局委員。