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松本清張のまとめ
松本 清張(まつもと せいちょう、男性、1909年12月21日 - 1992年8月4日)は、日本の小説家。“せいちょう”はペンネームで、本名は、“きよはる”と読む。
一般的には福岡県企救郡板櫃村(現在の北九州市小倉北区)出身とされるが、広島県広島市で生まれ、幼児期から児童期は山口県下関市で育ち、小倉に定住したのは小学校5年生、10歳、11歳から<ref>清張は大半の文献の年譜で小倉生まれとなっている。しかし清張自身が最も私小説的で、半分は事実という『半生の記』の中で「私は広島で生まれたと聞かされた」と書いている。また北九州市立松本清張記念館にも展示してある清張の幼児期の記念写真の裏や台紙には、はっきりと広島市にある地名と撮影した写真館の名前が書かれている(藤井康栄 『松本清張の残像』、2002年、文春新書、31-35頁)。何より清張自身が読売新聞のインタビューで「生まれのは小倉市(現北九州市)ということになっているが、本当は広島なの」と話している(読売新聞、1990年11月12日夕刊、5頁)。北九州市立松本清張記念館の館長を務める藤井康栄も、著書『松本清張の残像』(文春新書、2002年)の中で、清張は広島生まれと記述している。</ref><ref>この他、自伝小説といわれる『父系の指』の中にも「私は広島のK町に生まれたと聞かされた」と書いているが、この「K町」とは広島駅近くの京橋町(現在の南区)である可能性が高い(中国新聞、2009年4月2日、25頁 中国新聞 地域ニュース)。</ref><ref>中央公論Adagio 2009年4月25日号</ref><ref>下関の同級生や関係者の証言、また清張自身の記述から、清張の家族が下関から炭鉱景気にわく小倉に転居したのは小学校5年生の時とする説が有力(『松本清張の残像』、35-37頁)。</ref>。
姉が2人いたが夭折しその後1人っ子として育つ。 実父が定職を持たず生家が貧しかったために高等小学校卒業後、川北電気で給仕の職に、その後、高崎印刷所で石版画工になる。 文学雑誌を耽読していたが、友人が読んでいた「戦旗」などの文芸雑誌を読んでいたため思想犯の嫌疑で検挙されたことがある。 1939年朝日新聞広告部に意匠係として勤める。 1950年、勤務中に書いた処女作「西郷札」が『週刊朝日』の「百万人の小説」に入選し、1953年に「或る『小倉日記』伝」が第28回芥川賞を受賞。以後作家活動に専念する。
1958年に発表した推理小説『点と線』『眼の壁』の2長編はベストセラーとなる。犯罪の動機を重視した「社会派推理小説」とよばれる作品は「清張ブーム」を引き起こし、推理小説を大衆に開放することに成功した。
このほか『かげろう絵図』などの歴史物を手がけていたが、『古代史擬』などで古代史に興味を示し『火の路』『眩人』に結実。また、『昭和史発掘』『日本の黒い霧』などのノンフィクションで現実世界にも目を向け、多芸多才な作家活動をおこなった。ほかの作品に『砂の器』や『Dの複合』、自身が代表作という『ゼロの焦点』など。