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小瀬甫庵のまとめ
小瀬 甫庵(おぜ ほあん、1564年(永禄7年) - 1640年(寛永17年)、甫菴,甫安とも)は戦国時代から江戸時代初期にかけての人物。『太閤記』『信長記』を著した人物として知られる。本名は秀正後に道喜(どうきまたはみちよし)、甫庵は号である。
美濃守護・土岐氏の支流であるといわれ、医学と経史を学んで織田家家臣の池田恒興に医者として仕えた。恒興の死後は豊臣秀次に仕え、さらに秀次の死後宇喜多秀家や堀尾吉晴にも仕えた。吉晴没後は浪人となったが、息子の小瀬素庵が前田利常に仕えた縁で加賀藩で知行を貰い、蟄居して諸書の著述に専念した。
甫庵はその生涯の大半で医学を食い扶持としていたが、現在有名である理由は主に著作した本による。現存する最古の活字本が甫庵の著した『蒙求』である他、太田牛一の『信長公記』を自分流に書き直した『信長記』は江戸時代に大衆に広まり、一般的な書物として読まれるなど、高い文才を持っていたことがわかる。現在同名の書物が複数あるものは、頭に「甫庵」を入れて『甫庵太閤記』『甫庵信長記』などと呼んで区別することが多い。
一方で、それらの書物を読み物として面白くするため、ふんだんに虚構を入れており、あくまで「歴史家」ではなく「歴史作家」であることには留意しなければならない。甫庵は太田牛一を「愚にして直な(正直すぎる)」と侮蔑の意を込めて評し、実際に牛一の『信長公記』が写本でしか伝えられなかったのに対し、甫庵の『信長記』はベストセラーとなって広く大衆に親しまれた。長篠の戦いでの鉄砲三段撃ちや桶狭間の戦いの奇襲攻撃など、現在一般には定説化してしまっている戦国時代の間違った知識の多くは、甫庵の作品に端を発している。しかし、現在では逆に、牛一の『信長公記』が第一級の史料として扱われているのに対し、甫庵の『信長記』は歴史史料としての価値は認められていない。