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公娼のまとめ
公娼(こうしょう)は、娼婦に公に営業の許可をあたえる制度がある場合、娼婦のうち、公に営業を許された娼婦をいう。公の営業許可を得ていない私娼に対する。
以下、日本における公娼について述べる。
日本における公娼制度の歴史は、必ずしも明らかではなく、建久4年に、遊女屋および遊女を取り締まるために、源頼朝が里見義成を遊女別当を命じたことが、関連する史実の文献初出であろうという。
足利氏は、大永8年、傾城局をもうけ、竹内新次郎を公事に任じた。
豊臣時代、天正15年、京都柳の馬場に遊郭が設けられ、ここに公娼の営業形態が散娼から集娼へと改められはじめた。
江戸時代、麹町道三町、麹町八丁目、神田鎌倉海岸、京橋柳橋に遊女屋がいとなまれた。江戸幕府は、散在する遊女屋を特定地域に集合させるために、元和3年、日本橋葺屋町かいわいに遊郭の設置を許可し、ここを「吉原」と命名した。(明暦3年に、浅草日本堤下に移転を命じた。)
この時、5箇条の掟書を出して、その取締規則によって営業させた。すなわち、
- 一、傾城町の外傾城屋商売致すべからず、竝に傾城囲の外何方より雇ひ来候とも先口へ遣はし候事向後一切停止さるべく候。
- 二、傾城買ひ遊候者は一日一夜の外長留り致間敷候事。
- 三、傾城の衣裳総縫金銀の摺箔等一切著させ申間敷候何地にても紺屋染を用ひ申すべく候事。
- 四、傾城屋家作普請美風に致すべからず、町役等は町々の格式通り屹度相勤め申すべき事。
- 五、武士町人体の者に限らず出所吟味致し不審に相見え候者は奉行所へ訴出づべき事。
こうして江戸に遊郭が設置され、ついで京都、伏見、兵庫、大津などにも公認の遊郭が設置された。
そのいっぽうで、市中にひそむ私娼を取締まり、これを禁じた。 このため、城下町や駅路でいとなまれる遊女屋は、「はたごや」という名目をとり、そこの遊女を「こども」、「めしもりおんな」などといった。
明治維新ののち、明治6年12月、公娼取締規則が施行された。ここに警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令されたのである。
のちに公娼取締規則は地方長官にその権限がうつり、各地方の特状により取締規則が制定された。たとえば東京では、明治15年4月、警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母および最近親族(が居ない場合は確かな証人2人)から出願しなければ許可しないとした。
明治22年、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は16歳未満の者には許可しないと布告された。
明治24年12月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったのであるが、内務大臣訓令によりこれを許可するとし、明治33年5月、内務大臣訓令により、18歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。
明治33年10月、内務省令第44号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が統一され、明治初年の制度に戻ったかたちとなった。これは16条からなり、中には娼妓自由廃業がみとめられていたので、公娼制度を大きく変えるものだといわれた。