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メフメト5世のまとめ


メフメト5世(Mehmed V, の弟。

1908年の青年トルコ党の蜂起によって翌1909年、兄・アブデュルハミト2世が廃されてサロニカに幽閉された後、その後釜として擁立された。このような経緯からメフメト5世は主導権が無い傀儡皇帝に等しく、青年トルコ党はメフメト5世のもとで立憲君主制の確立を目指そうとする。また、アブデュルハミト2世がオスマン帝国憲法の非常大権条項を用いてミドハト・パシャを追放したことが結果的に憲法の停止と専制政治を招いたことから、皇帝の権力に制限を加える方向で非常大権条項の削除などの憲法改正が行われた。ところが新たに召集された議会で立憲政治の方針をめぐって統一進歩派と一致自由派が対立する。このため、政府内部がまとまらず、国内における社会不安や混乱が続いた。

このような中で1911年イタリアとの間で戦争が発生する(伊土戦争)。イタリアは北アフリカのトリポリキレナイカを攻撃し、沿岸部の都市を早々に占領する。オスマン軍は内陸部に移り、現地の有力者らと抵抗を続けたが、イタリアにエーゲ海のロードス島なども占領されたことから休戦し、これらの地域を割譲せざるを得なくなった。イタリアは戦後、トリポリなどの地域を古名にちなんで「リビア」と改称し、同地における植民地経営に乗り出すことになる。

そして、伊土戦争でのオスマン帝国の敗戦を見て、1912年8月にはアルバニアで独立を求める反乱が起こった。そしてこれに付け込んだギリシアセルビアブルガリアモンテネグロなどのバルカン四国が同盟を結んで宣戦を布告してくる。いわゆる第一次バルカン戦争であるが、この戦争でもオスマン軍は大敗し、結果として欧州におけるオスマンの領土、つまりイスタンブル周辺を除いた領土のほとんどとクレタ島は4カ国に割譲することを余儀なくされた上、アルバニアが自治侯国として独立することも承認せざるを得なくなった。1913年6月にはマケドニアをめぐってブルガリアとセルビア、ギリシアが争い始めると、オスマン帝国はセルビア・ギリシア側に与してトラキア地方を取り戻すことに成功した(第二次バルカン戦争)。そして、この第二次バルカン戦争で活躍したエンヴェル・パシャがオスマン帝国の国政の実権を掌握し、エンヴェルはドイツ帝国と同盟を結んだのである。

1914年7月、第一次世界大戦が発生すると、オスマン帝国は同年10月にドイツとの同盟を理由にドイツ側として参戦し、ロシア領を攻撃するに至った。しかしこれにより11月、イギリスフランス・ロシアが一斉にオスマン帝国に対して宣戦してくる。オスマン帝国に三大国と太刀打ちできるだけの戦力があろうはずも無く、イギリスにキプロス島を奪われ、ロシアにエルズルムトラブゾンを占領されるなど敗戦を重ねた。ちなみに1915年から1916年にかけて、オスマン軍によるアルメニア人虐殺事件が起こっている(一説には犠牲者は100万人とも)。しかし幾ばくかの成果もあった。三国協商連合国)が帝国の中枢ガリポリ半島への侵攻を試みるも、オスマン軍は翌年に撃退。強国と謳われた大英帝国を破った事でオスマン帝国は一時的にではあるが昂揚し、帝国の維持に成功している。このガリポリの戦いの勝利のお陰でイスタンブルは死守され、皇帝も安寧を保つことが出来た。最もこの勝利を演出したのは、後にトルコ革命を起こすムスタファ・ケマル(ケマル・アタテュルク)であったのは皮肉ではあった。しかし戦局は次第に苦しくなり、三国同盟側の敗勢によってオスマン帝国も連合国に追い詰められていくのである。

このような戦況不利の中、メフメト5世にはどうこうしようという政治力は全く無く、1918年7月3日に73歳で死去し、後を弟のメフメト6世が継いだ。 帝国の降伏前に死んだのは、彼にとっては幸福だったかもしれない。


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