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フラニョ・トゥジマンのまとめ
フラニョ・トゥジマン(Franjo Tuđman;1922年5月14日 - 1999年12月10日、フラニョ・ツジマンとも表記)は、クロアチアの政治家。初代クロアチア共和国大統領。権威主義的独裁者。熱狂的愛国者。
ザゴラ出身。第二次世界大戦時に共産党に入党し、パルチザン部隊に加わる。1961年、上級大将の階級で軍から退役し、ザグレブ労働者運動大学学長となった。1965年、ザグレブ大学で博士号を取得。民族主義支持の容疑で、1972年と1981年に2度逮捕されている。この際、軍の階級と勲章は剥奪された。
クロアチア人移民の支持の下、1989年にクロアチア民主同盟(HDZ)を創設。1990年の自由選挙で勝利を収め、トゥジマンは民主同盟が多数を占める議会よりクロアチア大統領に選出された。
大統領に就任したトゥジマンはクロアチア民族自治権に基づく「クロアチア人の為の純潔国家」を宣言した。この宣言はクロアチア人による事実上の独立宣言に等しく、共和国内のセルビア人は一斉に反発。クロアチア共和国内に新たに「クライナ・セルビア人自治区」「東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州」を設け、クロアチア人との対決姿勢を強めた。
1990年12月21日、トゥジマン政権はクロアチア共和国憲法を改正。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国からの離脱権、クロアチア人の民族自決に基づくクロアチア人国家の創設等を明記したこの憲法は、クロアチア文化に基づく統合政策(非クロアチア人も、クロアチア語を読み書きし、カトリックへ改宗し、クロアチア共和国へ忠誠を誓わなければクロアチア共和国発効の身分証明書を発行しない)と言う、クロアチア共和国内のセルビア人の排除を強く意識した内容であった。「クライナ・セルビア人自治区」内のセルビア人はトゥジマン政権を第二次世界大戦中の傀儡国家「クロアチア独立国」を指導したクロアチア人組織「ウスタシャ」の復活と位置付け、抵抗運動を活発化させた。
1991年6月25日、国民投票の結果を受け、遂にクロアチア共和国がスロベニア共和国と共に、正式にユーゴスラビア連邦より独立。同年7月、セルビア人を主体とするユーゴスラビア連邦軍が「クロアチア共和国内のセルビア人保護」を目的として首都・ザグレブへ向け侵攻。1991年10月、クライナ・セルビア人自治区のセルビア人勢力も本格的な武装蜂起に踏み切り、クロアチア共和国の内戦は激化した。正規軍であるユーゴ連邦軍とユーゴスラビアに軍事支援を受けたセルビア人勢力に対し、装備的に劣るクロアチア警察軍とクロアチア人民兵組織は各地で激しく抵抗。
1991年11月、EU(ヨーロッパ連合)の仲介を受け両軍は停戦に合意したが、軍事的にはクロアチア警察軍の敗北であった。停戦監視の為に国際連合保護軍(UNPROFOR)が派遣される中、1991年12月、クロアチア共和国内のセルビア人勢力「クライナ・セルビア人自治区」「スラヴォニア・バラニャ・西スレム自治組織」が統合され「クライナ・セルビア人共和国」として独立を宣言。
1992年1月、クロアチア共和国軍とユーゴスラビア連邦軍の停戦が正式に発令し、クロアチア共和国は事実上の独立を果たす。
1992年、直接選挙によりトゥジマンはクロアチア共和国大統領に再任される。しかし独立は果たしたものの、依然として「クライナ・セルビア人共和国」内のセルビア人勢力は軍事的脅威として残り続けた。トゥジマンは歴史的に繋がりの深いドイツと友好関係を結び、また一方でアメリカの軍事支援を受け、クロアチア警察軍をクロアチア共和国軍に昇格させ飛躍的に強化した。
1993年1月22日、クロアチア共和国軍は国連管理下にあったクライナ・セルビア人共和国に侵攻するもセルビア人勢力に敗退、膠着状態が続く。同年トゥジマンはクロアチア人勢力が優勢なヘルツェゴビナ領域をヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国としてクロアチアに併合する目的でボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に介入、同国内で劣勢に立たされていたムスリム人とも連携し、セルビア人勢力との戦いを優位に進めた。1994年3月、ロシアの仲介で「クライナ・セルビア人共和国」との休戦協定が成立する。
1994年10月、アメリカ・ロシア・国連・EUは、クロアチア共和国に対して「セルビア人に一定の自治を認める和平案」を提示したが、トゥジマンはこれを拒否する。クロアチア共和国は「国内に配備されている国連保護軍(UNPROFOR)こそがクライナ・セルビア人共和国の既成事実化に繋がっている」として、国連による委任統治の中止、国連保護軍の撤退を主張した。国連や米国の説得によりトゥジマンも妥協し、国連防護軍の駐留人員を3分の1に削減する様に要求するが協議は平行線のまま、国連保護軍駐留の期限切れが迫る中、クロアチア共和国軍の反攻作戦を迎える事となる。
1995年5月、クロアチア共和国政府はアメリカの支持を取り付け、停戦協定を破って再び「クライナ・セルビア人共和国」へ侵攻、長らくセルビア人勢力下に置かれていたヤセノヴァツなど西スラヴォニア地方全域を解放した。
1995年8月、「クライナ・セルビア人共和国」の全域制圧を賭けてアンテ・ゴトヴィナ指導による『嵐作戦』を実行、電撃的な軍事侵攻によりトゥジマンは勝利を収めた。だが一方でクライナ地方のセルビア人住民の大部分(20万人)が難民としてセルビア共和国へ流出、セルビア人勢力の残した財産の60%は戦闘によって破壊され、残りはクロアチア共和国軍と警察が接収、クロアチア共和国政府によって売却された。東スラヴォニア地方ではクロアチア共和国軍とセルビア系勢力が停戦に合意する。
同年11月、旧ユーゴスラヴィア和平協議の中でセルビア系勢力は最後に残った「東スラヴォニア」の統治権を放棄(2年以内にクロアチアに統合する)。国際連合東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム暫定統治機構(UNTAES)が展開したが、1998年1月15日に東スラヴォニアの施政権はクロアチア政府に移管された。紛争前にはクロアチア共和国の人口の12%を占めたセルビア人は、紛争後には5%以下に激減した。
トゥジマンは健康状態の悪化にも関らず、1997年6月、3期目に再選された。1999年、胃癌のため入院。1週間後、クロアチア最高裁判所は、トゥジマンを「一時的労働不能」と宣告し、行政権を議会議長ヴラトコ・パヴレチッチに委譲した。
トゥジマンは軍事力に勝るユーゴスラビア連邦軍、セルビア人勢力との内戦を一貫して指導し、クロアチア独立の父としてその地位を確固たるものとした。その政治手腕は時として独裁的とも言われたが、戦争を遂行する上で強力な指導力を発揮し、祖国を独立へと導いたトゥジマンは今もクロアチア国内でその名声を称えられている。